山という家

「山」というのは日本語では一義的には土地が高く盛り上がり先のとんがった地形のことを指す。いわゆる私たちが日常視覚的に思い浮かべるあの姿。しかし私が住む長野県の村では「山」と言った場合、単にその特徴的な地形を指すだけではなく、もっと意味の広がりを持った場合がある、ような感じがしていた。ずっと。

去る3月より村の山仕事に参加している。一般的には林業と呼ばれる作業。林業にもいろいろあるが、村に少しづつ押し寄せ始めた松食い虫、またの名を「マツノザイセンチュウ」という松を枯らせるごくちっちゃな虫の侵略を抑えるために、そしてみんな大好きな松茸が育つ環境に必要な松の木への被害をこれ以上広げないために、虫が巣食い始めた松を切り倒す作業。高さ20m以上もある松の木をチェーンソーで倒し、そこに5-6人の大の大人が乗っかり、またがり、さらに丸太に刻んでいく。その仕事は写真や映像でいつか見た捕鯨を彷彿とさせる。人間の体を遥かに越える背丈、重さ、森という自然の創発的な力学の中、複雑に入り組んだ樹々の間で行う作業はいつどこからやってくるかわからない危険と緊張感の中での瞬間の判断の連続だ。そんな作業の合間、ほっと一息つきながら木立の隙間から村を見下ろすと、そこには民家があり、畑があり、田んぼがある。さらに遠くまで見渡すと、高原野菜の産地である朝日村の土地のなんとマルチと呼ばれるビニールで覆われていることか。そこにあるのは「里」での人間の暮らし。様々な道具、知恵、経験に裏打ちされた、農を基盤にした人の営み。この地に移り住んでからの10年の私の暮らしは米作り、農と共にあった。そして今、私はそんな農が営まれる「里」の暮らしを「山」から見下ろしている。農とは生き抜くための人間の知恵の一つの帰結なのだろう。自然、植物の生態の観察、そしてそこから導き出される法則性の発見と模倣。その先に人間が糧を得ることができ、かつ植物が喜ぶはずの最適解としての農という環境づくりがある。生物種の違いを超え、他者の気持ちを想像し、寄り添うことができるという人間に与えられた一つの偉大な恩恵の果実が農だとすれば、獣の気配を感じながら危険に対する緊張が緩むことのない世界、山で木を切り倒すという格闘によって糧を得る「山」の世界は里に広がる農の営みの反対にあると言えるだろう。

6月にしてはあまりに暑い日の午後、倒しっぱなしにしていた栗の木を我が家の冬の薪ストーブにくべる材とするため一人山に入り、チェーンソーで丸太にして山から降ろした。汗まみれの作業の休息の間、遥か見上げるほど背の高い樹々が作ってくれた木陰の中を風が吹き抜けていく。あまりの心地よさにずーっと目を閉じ、風が体の火照りを冷ますその感覚を悦びと共にじわーっと楽しむ。人間は樹々と言葉を交わせない。それでも人間は木々が生み出す日陰に休み、憩うことが出来る。太古、森であり「山」は危険を伴いながらも人間にとって心地よい住環境だったことだろう。昔から日本では木を使って家を建て暮らしてきた。でも、それは詰まるところ森の延長であり、「山」という空間の一つの模倣であるのかもしれない。眼下に見える里はわずか数百メートル先なのに私が今座っている場所との間には大きな環境の違いがある。だがしかしその二つの異なる環境を多くの人の手と業によって緩やかに橋渡しをしてきた「山」という空間がここにはある。きっとかつての人々が継いだきた汗の記憶と共にあり、生き抜く糧をもたらしてくれるこの豊かな空間を人々は愛着を込めて「里山」と呼んだのだろう。

 頑張って切り出した栗の丸太はずしりと重かった。簡単に山から下ろせるようにいろいろ術を考えたものの、結局のところ自分の手で運ぶこととなった20を数える生木の丸太の重みは猛暑の午後の体には応えた。すべての丸太を車に載せて、山から流れてきた沢の冷たい水を口に含み、頭と腕と顔を冷やす。生き返るような心地でふと目線を上げると、山と里の間で慎ましく伸びたトゲトゲの草のその枝の先にラズベリーにそっくりな赤い実が西陽に映えている。くたびれ切った体の中から湧き上がる本能に身を任せ、その赤い実を夢中で頬張ると、えも言われぬほのかな甘みと酸味が体の中にじんわりと染み渡っていった。 

(2022年6月)