Obsidian
これらの写真はわたしが住む長野県朝日村で出土した縄文時代中期(約4000-5000年前)の石器を撮影したものです。主に狩りに使う鏃(やじり)として作られたこれらの石器は2-3センチほどの大きさで、黒曜石と呼ばれる石から作られています。黒曜石はその名の通り一見すると黒い石ですが、急激に冷えたマグマが固まってできたガラス質が大半であるため、光をよく通すのが特徴です。これらの写真はライトボックスと呼ばれるネガを見るために使う蛍光灯の入った明るい箱の上に黒曜石の鏃を置き、大判フィルムカメラを使って接写しています。
黒い布を頭から被り、ファインダーをのぞくと透明と黒の紋様が光の中に浮かび上がる。その姿にしばし見入ったあと、視線を鏃の輪郭へと移してその線をゆっくりなぞってみる。注意深く何度も細かく石を削り落とすことで生まれたその線が、火山活動が織りなした自然の紋様を不自然に切り取っている。獲物を狩り、人間が生き抜くために自然の中に引かれたか細い線。その線によって生まれた小さな穂先は同じものが一つとしてない。大昔、石工の匠は黒曜石という自然を読み、ひとつひとつ自らの手で完成させたこの鏃を指でつまみ、太陽の光に透かし、満足して「よし」とつぶやいたことだろう。そんな鏃の姿を5000年後の子孫である私はカメラという光のテクノロジーでフィルムに焼きつける。
人類は物を作ることで今日の繁栄を築き上げた。物なくして今の私たちはない。しかしながら、私たちはいつの間にか自分の手で物を作ることから遠ざかり、いまだかつてないほど他人や機械によって作られた物を使って生きているというのもまた事実だ。末永い繁栄を望むのならば、今一度私たちはかけがえのない仲間として物に歩み寄り、もっと物に語らせるべきだろう。物が発する微かな声はわたしたちの耳にどう届くのか? すべてはそれを受け取る私たち人間にかかっている。