待つこと

 当たり前のことだが、農という営みとその成果はその時々の気候に大きく左右される。先人たちの試行錯誤によって確立された様々な農法、そして自らの経験に基づいた計画がどれだけ良いものだとしても、その最終的な結果は人間の手に及ばないことがある。天候不順がもはや普通になってしまって、長雨や日照りが当たり前の昨今は特にそのことを痛感する。
 2019年の米作りは7月にかけて数週間にわたり長雨と低温に見舞われた。太陽を拝むことが叶わぬ日々の中、あまりに弱々しい稲の姿を見守りながら少しづつ不安が募っていった。7月中旬のある日、いつものように田んぼで稲の様子を見ていると、葉っぱに黒っぽいシミのようなものを見つけた。今まで見たことのないごく小さな紋様で、葉っぱが焼けているように見えた。嫌な予感がしたのだが、それはいもち病だった。カビの一種であるいもち病は古くから日本人に恐れられた稲の病気で、低温にさらされ続けると発生し、一株にそれが発生すると全体に一気に蔓延することもある。蔓延を止めるためにできることは限られているのだが、半信半疑でお酢のスプレーをかけてみたり、病気の発生した部分の葉っぱをハサミで切り捨てたりした。そんな努力を嘲笑うかのように、その後もしばらく太陽が顔を出すことはなく、雨は降り続けた。
 家の居間の窓から降り続く雨をぼんやり眺めていると、今年の米作りももはやこれまでかという気分になってきた。あとできることと言えば、ただ太陽が出てくるのを待つだけだった。ふと、もしかすると今年は米を収穫できないかもしれない、という不安に襲われた。
 人間は観察し、自然を読み、環境に手を加え、やがて農業という名の生き抜く術を身につけた。それは予測や計算という科学的思考によって支えられている。今は天気予報が発達し、米作りに必要な情報はいくらでも手に入る。それに比べて、害虫や冷夏に怯えながら行われていたかつての米作りはどれほど命がけであったろう。現代を生きるわたしの米作りは、失敗したら買えばいい、という安心感に守られているが、かつての人々は時に雨を、時に太陽を乞いながら、今よりも遥かに長い「待つしかない時間」を過ごしていたことだろう。
 「祭り」の語源は「待つ」であるという。「人知の及ばない大きな力」に日々の営みの平穏を乞うという行為の根源は”待つこと”にあるのだ。降り続ける雨を見ながら、「待つしかない時間」をこの時代に過ごしているのはむしろ貴重なことなのかも知れないと思うと少しずつ気が楽になっていった。空を見ながら長い梅雨が明けるのを心の中で祈った。

 幸いなことにさらなる待ち時間は1週間ほどで済んだ。7月の最終週に梅雨明けが発表され、夏の太陽が降り注ぎ始めた。間一髪のところで蘇った稲はその年の秋にはたわわに実をつけ、初穂はいつものように我が家の神棚に供えられた。

(2019年11月)