巡る火

薪ストーブのある暮らしはいい。その独特の暖かさもさることながら、火を眺めている時間が何より良い。最近巷では焚き火が流行っているそうだが、それもきっと人はみな火を見つめている時間に魅せられるからだろう。
 我が家は薪ストーブを導入してから7年ほど経つのだが、今年になり薪が底を尽き始めてきた。そんな折、物置となっていた古い離れと納屋の大規模な片付けをした。底の抜けた樽、古くなったベッド、鍬の柄など大量の木製品たちが長きにわたる任務を終え、令和3年1月、焚き物としてその歴史を閉じることとなった。古い小さな箪笥の引き出しに敷いてあった新聞紙には昭和18年、太平洋戦争の記事が記されていたいたので、その歴史の長さたるや推して知るべしである。道具として眠っていた木製品たちは丁寧に釘が抜かれたのち、適度な大きさに刻まれ、薪不足の深刻な我が家の熱源としてありがたく薪ストーブに投入された。
 ガラス越しに火を見つめる。じっと見つめる。何十年もの暮らしを支えてきたものが今目の前で燃やされ、その熱はわたしの家と体を温め、薪ストーブの上の今夜の晩ご飯である南瓜と里芋をコトコトと煮ている。燃やすことで人間の暮らしは完結する。かつてあの離れに住んでいた大家さんの家族も寒い冬の夜にこんな風に煮炊きをしながら火を見つめていたことだろう。目の前で炎がゆらゆらと揺れている。その炎をずーっと見つめていると、人間の始源へ向かって意識が動き出し、遠い遠い昔この村にも多く住んでいた縄文時代の人々へと至る。彼らが火を用いて作り出した土器は食生活の多様化と暮らしの大きな変化をもたらした。彼らの暮らしはまさに火と共にあっただろう。そんな彼らが生きた時代から5000年以上たった同じ地で、わたしも今同じように火を見つめている。ゆらゆらと揺れる炎の奥にある闇に、この地に生きてきた人々の面影が浮かんでいるようだった。と突然、そんな空想を打ち割るように目の前の薪がパチーンとはぜ、炎の先がクルッとめくれたようになった。その炎の姿はこの村で見つかった多くの縄文土器に施されているあの特徴的な螺旋紋様のようだった。縄文の人々が炎の姿から螺旋紋様のインスピレーションを得たかどうかわたしにはわからないが、一瞬見えた螺旋の炎に巡りゆく時間の「かたち」を見た気がした。途切れることなく太古より火と共に継がれてきた人間の生と死の果てにある今を。
 その晩の里芋は実に美味しく煮えた。そして翌朝、ストーブの中に溜まった灰を掃除していると、不意に昨年他界した祖母のことが頭をよぎった。あの日、灰と骨になった祖母の最後の姿を。

(2021年1月)