虫巣食う身体

 重い腰を上げ、放置していた楢や桜の丸太の薪割りをすることにした。楢などの広葉樹は一般的にとても硬く、しかも直径40−50センチほどある大きな丸太だったのでマサカリでは歯が立たず、5年もほったらかしていたのだが、少し奮発してより強固なくさび2本と金槌を購入し、薪置き場の一角を占拠していた十数個の巨大な丸太と取っ組み合うことにした。

簡単に割れそうな丸太から始め、半分ぐらいやっつけたところで、見るからに手強そうな楢の丸太に取り掛かることにした。何事にも動じず、いかなるものの侵入も拒むような佇まいのその丸太は分厚い樹皮に覆われ、激しくねじれ、曲がっている。そして中央にある大きな節の存在がこれから始まる作業の難しさを予見していた。丸太を見回しながらどこから手をつけるべきかしばらく思案した後、丸太の切り口にあった微かなひびにくさびを当て、力いっぱい金槌で叩いていった。ねじれのせいで思ってもいなかった方向に丸太は少しづつ割れ始めた。途中、節の部分に出くわしたところで2本目のくさびを横から打ち込み、さらに数分の格闘が続いたのち、丸太はようやく割れ、その内部を露わにした。

任務遂行の安堵と喜びに浸り、割れた丸太の内部に見惚れていると、小さな穴の中に冬眠中の虫を発見した。不思議だったのはその小さな幼虫がいる穴には外部から侵入した形跡がどこにも見当たらないことだった。この幼虫はどうやってこれほど強固な丸太の中に侵入したのだろうか?

話は飛ぶ。
江戸時代に盛んに行われた庚申信仰というのがある。今では形骸化した行事が残っているのみだが、それは道教と仏教をベースにした民間信仰で、人間の体には「三尸(さんし)の虫」という虫が住み着いていて、陰陽五行の巡りで60日に一度やってくる庚申の夜にこの虫は人間の体から飛び出て神様に人間の悪事を告げに行く。だからその日はみんなで集まってお経を唱えたりしながらその虫が体の外に出ないように夜を寝ずに過ごす。古来、私たちの身体にはそんな虫がいた。考えてみれば日本には「虫が好かない」「虫の知らせ」「虫の居所が悪い」などの表現がある。人間の体の内部に住みつき、理性とは無関係に私たちの意識や感情に影響を与える何かである「虫」。

割れた丸太を見つめる。この小さな幼虫はどこからか丸太の内部に侵入した。この世界では、生きるものは常に外部に晒され、何者かが絶えず身体の壁を越境し内部に侵入し続けている。丸太が虫に侵入を許したように、この虫自身もやがては食べた餌を通して別の様々な菌の体内への侵入を許すこととなる。わたしたち人間もまた1000種類以上、重量にして約1キロにもなる善なり悪なりの腸内菌たちを体内に抱えており、それらの菌は人間の身体への絶え間ない出入りを繰り返しながら腸の中を住処にし、第二の脳と呼ばれるほど私たちの感情や意識に影響を与えている。この世界は内と外の区別がつかないほどに入れ子状になったいくつもの身体でできており、人間の身体も世界を形成する一部分に過ぎない。

私たちがいくら望んでも自分たちに有益な善なる「虫」だけを選んで身体の内に招き入れることはできない。
ましてや、目に見えないコロナウイルスだけを間引いて侵入を阻止することなどはたして可能なのだろうか?
様々な他者を内に宿す私たちの身体とは一体誰のものなのだろう?
そして地球という名の大きな身体内部に巣食う私たち人間とは一体どんな「虫」なのだろうか?

(2021年2月)