風 – 見えないもの

冬になるとわたしの住む村では風が強くなる。北アルプスからのふき下ろしは強烈で、恐ろしいほいどの勢いで谷筋にある我が家を抜けていく。
ある寒い朝、冬の太陽は山の向こうから姿を現すことはなく、青白い光がかすかに漂うだけの ほの暗いダイニングルームの小さな灯油ストーブのそばで背中を丸めながらコーヒーを飲んでいた。ふと吐いた息が白いのに気づきコーヒーカップを両手で握り直し、黒い液体をじっと見つめ る。その色の奥行きに吸い込まれそうになりながら、深い静寂の中じっとしている。すると、ど こからか少しか細く震えるようなフー、ヒュルヒュルーという音が聞こえてきた。家の外、少し 高いといころで聞こえる音。流れるように、そして抑揚のついた笛の音のように。誰かが演奏し ているようでもある。その音は風の音だった。しばらく聞かなければわからないほど、今まで聞いたことのないような音色だった。こういう言い方がどうなのかわからないが、それは風そのものの音に聞こえた。風は普通、葉を揺らしたり、物に当たることで発生する音を聞き私たちは風の存在を知るが、そうではなく、風自体が発する音。
 今度はゆっくりと眼を閉じてみる。普段から見ることに酷使されている眼は休息を与えられ、替わって耳は感度を少しづつ上げていき、風の音にチューニングを合わせる。安らぎにも似た暗い闇の不思議な心地の中で風の音が耳に届き、そしてその旋律が体の中を抜けていく。今自分は 見えないものの世界にいる。全ては消え、音だけが残った。そこには風とわたし、そしてさっき から台所の蛇口からゆっくりリズムを刻みながらポタポタたらいに落ちる水の音があるだけだ。 どれぐらい経っただろうか、しばらくして風の音は止んだ。ゆっくりと目を開け、いつもの世界に戻る。

ずっと両手で持っていたコーヒーをまたじっと見つめ一口飲むと、それはさっきより だいぶ冷めていた。

(2021年1月)